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「不人気だったが、戦後のトヨタではこれが限界」トヨペットSA型乗用車とは【推し車】
目次
成功せずとも黒歴史にあらず
世界最大規模の自動車メーカーであるトヨタも、第2次世界大戦後の乗用車開発はこの程度から始まり、自動車メーカーとしての存亡に関わるものさえ含む幾多もの試練を乗り越えて現在があるという証人が、トヨタ博物館に展示されているトヨペットSA型乗用車です。
戦前からトラックだけでなく大型乗用車も作り、戦時中にも将来有望そうな小型乗用車まで作っていたトヨタにとって、SA型は単なる戦後初の乗用車というだけでなく、その時点で作れる最高のクルマを作り、将来につなげようという象徴だったのかもしれません。
それだけに、当時の日本の国情に合ったクルマとはとても言えず、販売そのものも極めて制約された中、生産台数もわずかに留まりましたが、決して黒歴史にせず自らの博物館で展示している事自体が、トヨタが成功してきた証とも言えます。
まるでヨーロッパのどこかで見たような
現在トヨタ博物館で展示されているSA型を見ると、「フォルクスワーゲン タイプ1(ビートル)とルノー 4CVを足して2で割り、FRレイアウトへ改造したようなクルマ」というのが、率直な感想です。
タマゴのように丸みを帯びたボディへ、同じく丸っこいフェンダーで前後輪を覆った姿は、1930~1940年代あたりのヨーロッパを中心に流行った軽量高剛性構造の典型ですし、日本でもスバル360(1958年)まで受け継がれています。
スペース効率の面では不利ですが、当時考えられた空力性能や、期待できる動力性能を考えるとこれ以上の形は考えにくく、フェンダー一杯の幅を持つ重たいボディを走らせる高性能エンジンや、そのためのガソリンを自由に得られなければ、仕方ありません。
ビートルやルノー 4CVのようにRR(リアエンジン・後輪駆動)を採用せず、FR(フロントエンジン・後輪駆動)だったのも、同時並行開発していたトラック(トヨペットSB)とエンジンや駆動系など、少しでも共通部品を増やそうと思えば仕方のないことでしょう。
とはいえ、ビートルと前後逆にしたような鋼管Y字バックボーンフレームや4輪独立懸架、ミッションから直接床下にシフトレバーを生やすフロアシフトではなく、複雑なリンク機構を介したコラムシフトの採用など、トラックのSBとは相違点が多すぎます。
何より1947年10月の発表時、日本国内の自動車販売は未だに配給制で、どう頑張っても量販などできませんでしたから、どうせならもっと将来につながるクルマづくりでもよかったかもしれません。
結果的に、クルマ単体としては、「戦争直前のヨーロッパ車っぽいクルマを作りたかったけども、今ひとつ噛み合わない凡作」という評価が残りました。
戦時下に開発したトヨタ小型乗用車にはEVすらあった
1931年に満州事変が始まってからの創業で、戦前・戦中を通じてダットサンやオオタのような小型4輪車も、ダイハツやマツダのような3輪トラックも作らず、大型乗用車やトラックばかりだったイメージのトヨタですが、将来を見越した小型乗用車も開発しました。
ドイツから輸入した、2サイクルエンジン・FFレイアウト大衆車のDKW車を参考にした「EA型小型乗用車」、そのパワートレーンをリアに移したRRレイアウトの「EB型小型乗用車」、EA型を一充電走行距離60km程度のEVにした「EC型小型乗用車」がそれです。
現在の軽自動車よりボディは小さいものの、ホイールベースは軽自動車最長の三菱 iより長い2,610mmで、エンジンルームの分を割り引いても居住性は良さそうで、584cc2気筒2ストロークエンジンは18馬力と非力ですが、車重650kgと軽いので素性は悪くありません。
後のスバル360とはいかないまでも、初代スズキ スズライトSS(15.1馬力・520kg)に近い動力性能はありそうで、そのまま戦後に発売すれば面白かったような気もします。
EC型も走行距離が短いとはいえ、戦後のガソリン不足で「たま電気自動車」がウケた時期もありましたし、前輪駆動で耐久性なEA型はともかく、EB型やEC型を戦後に発売していれば、その後の日本車の歴史も大きく変わっていたのでしょうか。
戦後の環境に合わせたS型エンジン開発と、一大決心
第2次世界大戦での敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれた日本では、戦勝国たる連合国、特にアメリカで爆発的需要が巻き起こり、敗戦国になど回す余裕のない自動車の生産再開は案外早く、終戦直後には認められました。
ただし最初は日本国内の経済活動を再起させるためのトラックがほとんど、バスが少々で、それも日本全国から湧き上がる需要に対し、資材も物資も人手も工作機械も…要するに何もかも不足した状況で生産は進まず、GHQにお伺いを立てながらの配給制度が存続します。
1947年には乗用車生産も許可され、来日する海外からの使節団向けにトヨタも戦時開発のAC型乗用車を作り、ダットサンやたま自動車もタクシーなど業務用小型乗用車を作りますが、その数はまだまだわずか。
しかし、生産や販売はともかく開発は自由だったので、1945年10月にはトヨタで戦後初の小型車用エンジン「S型」の開発を開始、1946年に完成したこの1リッター直列4気筒4サイクルSV(サイドバルブ)エンジンが、戦後初期のトヨタ車において中核となりました。
戦前・戦中に開発したOHVエンジンでないのは、SVの方が簡便かつ整備性が良いためで、小排気量2サイクルエンジンでないのはトラックと共用するためだと思われます。
トラックだけでなく乗用車も作るなら、戦後生産型のAC型を含む2.6~3.4リッター級直6の大型乗用車、または2.3リッター級直4の中型乗用車といった戦時開発型もありましたが、いずれも戦後の日本では大きすぎ、同クラスなら完成度の高いアメ車には対抗できません。
ならば戦後日本で求められるクルマとは、国情に合った小型車だろうと開発されたのが、S型を積むトヨタ初の量産小型乗用車、SA型でした。
国鉄の急行列車と競争
デザインは戦後開発組にしては少々古く、性能より耐久性、そして高望みながら快適性や使い勝手を重視した作りで車重は940kgと重いものの、サイドバルブとはいえ燃焼効率を重視、公称最高出力27馬力を得たS型エンジンで、最高速度は80km/hと記録されています。
似たような出力でも300kgほど軽いビートルが、戦前に開発されながら100km/h以上で巡航できたのには及ばず、後のスバル360が18馬力の2ストロークエンジンでも500kgほど軽くて同程度の最高速を得ていたのを考えれば、SA型の性能はささやかなものです。
それでも、発売後の1948年8月7日には公道での性能をアピールすべく、警察の許可を得て名古屋~大阪間で国鉄の名古屋発大阪行き急行第11列車(後の夜行急行「銀河」)と競争、途中でガス欠などに悩まされましたが、急行列車より46分早く着く快走を見せました。
当時の国鉄急行列車はSL(蒸気機関車)による牽引、それも粗悪な石炭を使っていた頃とはいえ、他に早い乗り物など飛行機しかない時代、「新幹線と競争して勝つ」に等しいチャレンジで、後にTBS系のドラマ「リーダーズ」のエピソードにもなっています。
ローマは一日にして成らず
しかし、それだけ宣伝してもトヨペットSA型は売れませんでした。
後に4ドア車(SAF型)も少数作ったとはいえ、2ドア車では小型タクシーに向かず、マトモな舗装路など都市部のごくわずかで、悪路だらけだった時代の日本の道では独立懸架サスペンションの信頼性への不信が根強く、業務用ユーザーに嫌われます。
ならば個人ユーザーはどうかといえば、そもそも自家用車を購入できる富裕層は、名義さえどうにかなれば闇ルートで手に入るアメ車に乗りますから、乗用車の配給性が解除されて以降も、国産の小型車など見向きもされません。
しまいには、トラックシャシーのみ供給してボディや荷台は架装業者が取り付ける時代だったので、SA型より信頼性が高いSB型トラックシャシーへ4ドア乗用車ボディを架装する「SB型改造乗用車」の方が多用され、トヨタ関係者を嘆かせる始末でした。
結局、トヨタでも「信頼性の高いラダーフレームに車軸懸架の乗用車シャシー」を作るようになり、架装各社がそれぞれオリジナルのボディを架装する状況がしばらく続き、トヨタ自身がシャシーからボディまで作る本格乗用車は、初代クラウンが初となります。
そのクラウンでさえ、SA型の二の舞になるのを恐れた保険として、タクシー用の「マスター」を並行開発したほどでしたが、どうにか成功、その後コロナやカローラの販売競争で日産に勝ったトヨタは日本ナンバー1、世界ナンバー1へと歩みを進めました。
しかし、そこまでの道のりは順風満帆と言い難く、特にトヨペットSA型での失敗は「ローマは一日にして成らず」を証明するものとして、今もトヨタ博物館で静かに展示されています。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
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- 執筆者プロフィール
- 兵藤 忠彦
- 1974年栃木県出身、走り屋上がりで全日本ジムカーナにもスポット参戦(5位入賞が最高)。自動車人では珍しいダイハツ派で、リーザTR-ZZやストーリアX4を経て現愛車は1989年式リーザ ケンドーンS。2015年よりライタ...